2016年8月14日日曜日

「天職に選ばれる」ということ


テレビでオリンピック選手のドキュメント情報を観て、

試合後のインタビューを聞いていると、

あんなにしんどい、きつい練習・・・というか修行をしていて、

「もう、一休みしたらよかろう」と感じるのに、

「4年後に向けて、精進します」とか

「課題も見えたので、もっと頑張ります」とか

答えています。


まるで、自分で選んだのではなく、

そもそも柔道が、テニスが、体操が、、、、、

自分を選んだかのような発言とも思えるのです。


今日、鹿児島協会の礼拝に出席して

尾崎先生のメッセージで、

「『信仰』とは、自分が信じるのではなく、キリストの中にもともと存在するもの。

人が信じるのではなく、『信仰』の方が人を見いだすのです」

というような内容であったと思います。


もしかしたら、信仰や天職といったものは、

自己決定しているようで、

大きな力の中に、定められているのかもしれません。


だからこそ、苦しい修行を当たり前のような発言がなされたり、

笑顔で、次の第一歩を語れるのかもしれません。



様々なことがあったとしても、

そのことに自分が選ばれているとしたら、

新しい朝に、陽が昇ってくることを受け止めるように

自分自身の歩みを受け入れられるのかもしれません。

「前を向くと言うことは、そういうことかもしれない」

と感じたのです。

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